あなたは
「故意である嘘ではない事実」が
「過失である間違いではない真理」であると証明できますか。
信念は、嘘よりも危険な真理の敵である
-フリードリヒ・ニーチェ-
結論から言うと、辞書では言葉の元来の正誤を判断する材料として成立しませんし、現在での正誤を定義するためのものでもなく、辞書編集者はそれを望んでいません。
そして飯間浩明氏は言語学の理念に背いていますし、彼の主張は論理学的に誤りです。
筆者は論理学などの学問の専門知識をほんの少し持っています。
当記事がデタラメだと疑うなら、下記サイトで論理学を学んでからお願いします。
中学生からの論理的思考力と議論の手法
知られざる国語辞典の編纂理念の真実
「みんなが使う言葉ならなんでもかんでも載せちゃえ♪」多くの人が誤解していますが、
辞書は「正しい言葉・意味・文字・読みを載せる」ものではありません。辞書というものは
「時代とともに変化していく世間の言葉と意味と文字と読みの後追いをするもの」です。
辞書はどのように編集されているのかというと、
「現在の、日本国内で、多く使用されて、意味が伝わって、定着している言葉を、元々日本語であるか外国語であるかは無視し、本国である外国での用例や用法も無視し、編集者の語感によって意味などを決めて、元来の正誤に関係なく、かといって現在では正しいと定義するわけでもないが載せる」です。
また
辞書は「文字そのものの意味」を解説していません。漢字とは絵からはじまったものです。「漢字そのもの」が何を表すかは成り立ちから解読できます。
たとえば「失」は「手」と「乙」が入っていて、失という漢字は「手から物がすべる」を表現しています。
「佚」や「軼」などの失が入った字は「失=それる」から成り立っています。
辞書とは世間の言葉の手本となる「鑑」でも、世間の言葉をそのまま映す「鏡」でもなく、自分がその時見聞きしたものに対して思ったことを書く「日記」です。
どの言葉を載せるかの基準ですが、たとえば広辞苑だと「なんとなく」です。
あまり流行に乗らない広辞苑でさえこうですから、他の辞書はどうなのか言わなくとも解るでしょう。
四字熟語辞典も同様で、日本における四字熟語の読み方は、過去の慣例・用例によって定められる側面があります。
例として「不失正鵠」を「正鵠を失わず」と読むと辞書に載せる理由は
「言葉の本国での用例は無視して、日本で用例があったから載せる」です。
あくまで日本で使われている言葉を解説するのですから、
日本に輸入された時点で誤っている外国語は辞書の力ではどうすることもできません。また同じ出版社であっても編集部が別々なのですから、当然同じ出版社ならどの辞書でも同じ見解ということはありません。
知られざる言葉の学問の真実
「規範文法」と「記述文法」という専門概念専門概念として
規範主義と
記述主義という概念があります。
簡単に言うと、正しい言葉と間違っているが使われている言葉です。
三省堂国語辞典は記述主義で有名です。
新聞社の元校閲記者の金武伸弥さんによれば、新聞・出版界では「
大きな辞書にない言葉でも、三国を引けばある」と冗談まじりに言われるそうです。
規範・記述・辞書については下記サイトに詳しく書かれていますので、ぜひ行ってみてください。
こりゃ、ほたえな 辞書では言葉の意味の「正解」は分からないタナナことば研究室 規範主義と記述主義なお三国は記述主義を「実例主義」と言っていますが、実例主義の反対は作例主義で、そういう意味でも三国は記述主義。
日本語文法再入門 実例主義と作例主義)
知られざる「語学」と「言語学」という学問の違い辞書及び言語学者の世界では「ことばは恣意的に決まる」が常識です。
ですが、それは
「語学」ではなく「言語学」だからです。
語学とは以下のように説明できます。
「ある言語を読み、書き、話し、聞くことができるようになるための技術であり、規範文法に寄り添う」
言語学は以下のように説明できます。
「客観的な視点から、構造や体形に分析し、言語がどのような『モノ』になっているかを解明する科学であり、記述文法に寄り添う」
語学と言語学の違いは、規範文法と記述文法の違いと考えれば解りやすいでしょう。
ぜひとも下記サイトに行って理解を深めてください。
アルザスのこちら側 言語学と語学の違い言語学者は何カ国語を話せる? -「語学」と「言語学」-hellog~英語史ブログ #747. 記述と規範[prescriptive_grammar][popular_passage]要するに
辞書は「言葉の正否を論じる立場ではない」のです。
記述主義ではない辞典だって記述文法に傾いています。
極右ではない右だって右翼ですし、極左ではない左だって左翼です。
ではなぜ辞書で正誤を解説する必要があるのか?「実用的かどうか」です。
辞書に「誤りではない」とするのは、編集者が「自分は世間で通用するから誤りじゃないと思ってる」からそうしているにすぎません。
正確に言えば言語学に「誤用・正用」という概念自体が存在せず、単に「使われているかどうか」のみで評価します。
辞書編集者は「言葉に『間違い・正しい』はありません」と言いますが、
裏を返せば「言語学に『間違い・正しい』という概念自体が存在しないため、この言葉は『間違い・間違いでない・正しい・正しくない言葉』である」と判断する能力も権利も持たないのです。国語辞典の編纂理念は辞書の前書きで少しだけ説明されています。
辞書の編集という仕事には、完了ということがない。その時その時の一応の仕上げがあるだけである。
言葉というものがつねに変化・発展の歩みを続けてやむのないものであるために、それをとらえて記録する仕事は、いつになっても、これで完了したということにはなり得ないのである。
(新選国語辞典 第七版)
なぜ「基本的すぎる言葉の学問の専門知識」を学者が詳しく説明しないのかというと、
パティシエがお菓子作りの教室で「パティシエに料理できるものはスイーツのみです。寿司、牛丼、ラーメン、カレー、グラタン、シチュー、ピザはスイーツではないので料理しません」と一々説明しないのと同じ理由です。当たり前すぎて話さないのです。
これらの辞書の真実を疑うのであれば、飯間氏以外の専門家の声を聴いてください。
下記サイトで明鏡国語辞典の矢澤真人先生が短い記事ですが色々語ってくれています。
ATOK.com 国語辞典は、自分の言葉を映すもの
知られざる全ての学問の母・哲学の基礎知識
「事実命題」と「当為命題」という概念言語学とは元々哲学でした。
というかすべての学問は哲学から始まりました。
なぜなら元々学問は哲学しか存在せず、哲学の一部分として扱っていたものを、それ専門の学問として独立・派生させたからです。
ゆえにあらゆる学問の母体と言える哲学の概念は、他の学問の根底に影響します。
根源である哲学において
「事実命題」と
「当為命題」というふたつの概念があります。
事実命題とは、この社会や世界や宇宙の過去・現代・未来で生じる「現象」を客観的に観測して記述した「事実・現実」を指します。
当為命題とは、単に事実を記述するのではなく、ある「現象」の善悪・正誤・正邪・美醜を論じる「規範・理想」を指します。
全学問の始祖の哲学では
「どれだけ『事実命題』を積み重ねようと『当為命題』を導き出せない」とされています。
なぜなら、そうしなければ
「人類は戦争を繰り返すという自然の摂理を、悪とみなすことが不可能になる」と言えば理解できるでしょう。
言語学者たちが口をそろえる「本来言葉に正誤はない」は
事実命題でありますが、当為命題ではありません。「本来存在しない概念ならば、概念を創造すべきでなく、できもしない」という理屈が正しければ、
本来自然界に存在しない「正誤・善悪・正邪・美醜・正義」を司る「美学・倫理学・論理学」や「政治・経済・宗教・法律・憲法・人権・道徳」などあってはならない。自然科学において「殺人」は非の打ちどころのない、悪くもなんともないごく普通のことです。「科学」とは「事実命題のみを研究する」であり、学者たちは「事実・現実を解き明かしたが、それで善悪・正誤を判断してはならないし、できないし、したくもない」と考えています。
科学者たちは
「科学では戦争を否定することができない。ゆえに科学が解明した事実・現実に立ち向かうべく、科学者ではない一人の人間として戦争を否定する」のです。
科学の言語学をささえとした「本来言葉に正誤は無い。言葉の変化は自然だから咎めるべきでない」という発言は、
「本来生物の行動に正誤は無い。戦争は自然だから咎めるべきでない」と発言しているのに等しい。あなたが熱心に語っている政治や経済は自然界に存在するものですか?
人間が恣意的に作り出した「自然の摂理に反する概念」に正解も不正解もありません。
正誤があるというなら是非とも教えてください。
宗教に元来の正誤はあるのでしょうか?
同一の宗教でもいくつもの派閥があって相反するのに、正しい宗教を定義できますか。
邪教とは誰がどうやって決めるのでしょうか。
本来命は尊いものではありませんし、地球が破壊されても悪いことだといえません。
命が地球に何をしますか?その地球が宇宙に存在する意味はなんですか?
政治も経済も宗教も命も地球も「事実命題と対立する当為命題」がなければ存在価値も存在理由も一切見いだせない概念です。
政治経済も道徳も「時代・立場・状況・によっていくらでも変化する極めて流動的であり、原理的に正誤を定めることが不可能な概念」であり、言葉と同じです。
だが事実と当為を同一視すると、人々を地獄に叩き落す独裁も宗教の皮を被ったイスラム国も日々殺されていく命も亡びゆく地球も何一つして「正誤」を語ってはいけなくなる。
そしてこれらは「概念の共有」がなければ成立しない。その概念の共有は「正誤を定めた言葉」がなければムリ。
「原理的な正誤が存在しえない言葉の正誤」を語るべきでないならば「原理的な正誤が存在しえない政治・経済・宗教・法律・憲法・人権・道徳」を語るべきでない。
「言葉」だけはあまあまさんで問題ないと主張するなら、「言葉による概念の共有がなければ成立しえない政治・経済・法律・宗教・憲法・人権・道徳」がどうなるか考えてください。
知られざる辞書編集者たちの見解
文化庁及び各辞書出版社は「三国の撤回で決着した」と認めていない角川書店に「三国が認めたから的を得るを認めるのか」問い合わせてみました。回答は以下の通り。
お問い合わせいただきました「角川必携国語辞典」の内容について回答いたします。
「的を得る」については、「当を得た」や「正鵠を得る」などから生じて、定着しつつあるものと思われます。
もう少し動向を確認したいところではございますが、「的を射る」の語釈に「『的を得る』とも。」と加筆することも検討しております。
こうしたことは特定の辞典や調査に依拠するものではなく、編集部で総合的に判断しております。
角川は今は載せてる?で、それは辞書の意義を放棄して規範で決めたのでしょうか?
他にも色々な辞書出版社に「三国が認めたから的を得るを認めるのか」と問い合わせました。
BIFFブログやブログ「こりゃ、ほたえな 辞書では言葉の意味の「正解」は分からない」も紹介しました。
どこも大体同じ回答でしたよ。
「他の辞書及び世間あるいは国の動向は確認するが、三国に限定して影響を受けることはない。三国は記述的見解から採用したのだろうが、我々の辞書は三国に追随して見解を変えることはない。自分たちの辞書に何を載せ、正誤をどう判断するかは、自分たちの考えで決めるだけ。規範・記述のどちらに偏る訳でもない」。具体的には↓のコピペのとおり。上述の引用と同様に省略していますが、回答内容はいじっていません。
ありがたいことに、多くのご信頼とご愛用を頂いておりますが、そのことをもって、日本語の規範、あるいは正しい日本語の用法の提唱等を体現しているものではありません。
そもそも辞典というものは規範主義と記述主義のバランスをとりつつ、世間の言葉の変化を後追いしていくものです。
(中略)
中国語での用法・原典ではなく、日本語での用法・慣用についての論となります。
(中略)
なぜ「射る」でなく「得る」を見出しとしたのかは定かでありませんが、広く使われている語法を採用したのではないかと推測されます。
青空文庫で「正鵠を得る」は多数現れますが、「正鵠を射る」はほとんど現れません。
あるいは、「正鵠を失する」の対として「得る」を採用したとも考えられます。
一方、「的を得る」についてのご質問ですが、「見解を変える予定があるか」という問いにはお答えのしようがありません。
「的を得る」に関しては何も言及していませんので、そこには語源的に見た用法の是非論の入り込む余地はございません。
先に申し上げたとおり、日本語の辞書である以上、現に通用している言葉の意味や用法を記述するのみです。
ただ、仰せのことは今後の改訂の際に勘案し、「的を得る」を見出しとして採用する可能性はあるというお返事にとどめます。
『小学新国語辞典 改訂版』は小学生向けの学習辞典であることから,子どもたちにとって必要な語を,わかりやすく適切に伝えることを第一としております。
その考えのもと,見出しの選定や記述を行うにあたっては,特定の辞典や資料によって行うのではなく,言葉を使用する側の規範意識と使用の実態とを,広く勘案して行っております。
『小学新国語辞典 改訂版』の記述につきましても,改訂版の編集段階でのそうした作業の結果に基づいて行っておりますが,今後,言葉の調査・研究が進んだり,規範意識や使用実態が変わったと判断されたりする場合には,次の改訂の際に,それらを受けて記述を変えていくことになろうかと思います
編者は「的を得る」など使ったことはない。以前から弓矢で「的を射る」と言うので、当然「射る」ものであって「得る」ものではない。
この慣用句「的を射る」はそこから転じて物事にも言うようになったまでのこと。
「的を得る」と言うようになったのは「当を得る」との混同もあれば、「射る」と「得る」の類音の影響もある。
「正鵠を得る」を持ち出さずともよい。「正鵠」は難しい漢語で、知識人のことばであって、一般人は知らないし、使わない。
編者は『三国』をはじめ、各種の辞典類を読んでいる。また文化庁の記述も読んでいるので知っている。
しかし、それが「影響を受けたかどうか」と言えるものではない。
『三国』が「的を得る」を誤りとせずに掲出したことについて、誤りのほうが増えたため、一般化したと考えたのであろう。
しかし、規範から言えば「誤りである」とするのは当然である。ことばの誤りはいつの時代にもあり、それを「誤り」とするかどうかは時代により、一般化したどうかによる。
以上、編者の言語知識、規範意識から現在、「的を得る」を誤りとした。
問い合わせるまでもない返答。
「辞書は正しい言葉を載せる本ではない。世間一般で使われる言葉を正誤・規範・記述に関係なく取捨し、自分たちの語感によってその言葉の意味を決める」と辞書の根源を説明されただけ。
中正鵠について話してみると「kwsk」という反応も。なお中正鵠の存在を知っている編集部は無いようです。
出版社から直接電話がかかってきて、「貴重な情報をありがとうございます」とお礼してもらったこともあります。
普通に使われている誤用説に信憑性がない言葉なら、とっくに多くの辞書が載せているでしょう。
上記の辞書編集部以外からの回答コピペもできますが、似たり寄ったりな回答ですのでわざわざ公開する必要もないでしょう。
三国よりずっと前から的を得るを普通の言葉として載せている『日本国語大辞典』の編集長と電話したときに、聞いたことは下記の通りです。
「的を射る/得るなら射るのほうが正しいです。しかし日国は用例があるものを載せています」
三国に「正鵠を得るが正しいという論拠はあるのか。的を得るの誤りを撤回した理由は規範的見解と記述的見解のどちらか」と問い合わせました。
「的を得るの正誤の議論は決着がついたのか」という質問には直接言及しなかったけれど、返答内容から「決着はついていない」と示唆している。結果は以下の通りで、三国は正鵠を得るも的を得るも元来正しい語句とは認めていません。
「中正鵠」は日本語に訳すと「正鵠に中る」「正鵠を射る」等になるとのご指摘ですが、慣用句であってもこのように複数の単語の組み合わせがある以上、さらに別形として「正鵠を得る」が流通することはありうることと考えます。
「正鵠を得る」の用例は、北村透谷・森鴎外あたりからあるようですが、慣用久しいということの重みも勘案すれば、「正鵠を得る」に関しては、『三省堂国語辞典』の中でことさら誤用と記す必要はないものと存じます。
(中略)
「的を射る」が古くから使われているため、②としても「的を射る」が本来の形であると受け止め、「当を得る」や「正鵠を得る」などとのコンタミネーションと解することによって誤用意識を生じやすいということは理解できます。
ただ、発生の経緯や使用実態を総合的に見れば、ご指摘の「得る」の意味で捉えることが合理的であり、「的を得る」を誤用として咎められないと存じます。
見坊先生は記述主義と規範的性格とは両立するというお考えをお持ちで、『三省堂国語辞典』では表記や語形、用法に「あやまり」や〔あやまって〕などの注記を付していることも少なくありません。この考え方自体は今後とも継承してまいります。
「さらに別形」、「三国の中でことさら誤用と記す必要はないもの」。
「『語源からして正しい』という規範的見解か、『得るに上手く捉える意味がある実例があり、その意味で的を得るの実例がある』という記述的見解か」と聞いた結果がこの通りですから、三国は「元来正しい」という規範的見解ではないようです。
三国の飯間のツイッターを見ても「元来正しい語句とは認定していない」ということを示唆しています。
というか三国は通用するかどうかで判断していて、元来の正誤を論じている訳ではありません。
まとめサイトで〈「的を得る」という表現が正しくなっていたことが判明〉というふうに書かれていますが、違和感があります。
『三省堂国語辞典』には「~が正しい」という言い方もほとんどありません。
私個人としては、ことばを正誤の観点ではなく、誤解が起こらないかどうかで評価したいと思います。
そもそも言葉とは意味があるから成り立ったものですが、言葉から意味を成り立たせる正反対の方法で言葉を評価しているのです。
たとえば、憲法の「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立」は「男女=両性≠男男・女女」ですが、それを無視して同性婚が全国で流行ったら、その事実を違憲にすると世間は大混乱してしまうので憲法解釈の変更をこころみるのと同義です。
この場合「両性=両者の性別=男女・男男・女女」と剛力押しで解釈でき、合憲となります。
憲法を作り上げた人々の想いは無視して……。
ちなみに文化庁に「三省堂が的を得るは誤りではないと言ったから、的を得るは正しいのか」という問い合わせの返答は以下の通り。
『三省堂国語辞典 第7版』の新しい記述に関しては承知しておりますが,他の辞書が同様の見解を示しているわけではありません。
例えば,同じ三省堂であっても,『現代新国語辞典 第4版』や『大辞林 第3版』などでは『三省堂国語辞典 第7版』と同じ見解ではないようです。
三省堂だけでなく,各社の今後の動向を注視していこうと考えております。
「的を得る誤り説の元凶の三国が認めたから決着がついた」という論を
三国がほかの辞書に影響を与えた訳ではない」「国は三国だけでは見解を変えない」「辞書は正しい言葉を載せている訳ではない」と明白に否定している。
国及び三省堂含む辞書出版社は的を得る正当論を決して認めていない。
そもそもあなたは
三国の撤回が正しいとする論拠を示せますか?「少なくとも30年来の自説を撤回するのに、相応の調査と検討があったことは間違いない」?「三国にも『誤りである』という解説があるように、三国は記述主義一辺倒ではない」?
語学でもなく、「中正鵠」という言葉の存在すら知らず、直接の編集者が関わりもせず、少人数の記述文法に傾倒した者のみで考え、外国語学者ではない昔の日本語学者の見解が参考で、得るは上手く捉える意味などとたわけたこじつけをし、編集までの期間や、記述主義一辺倒ではない方針、たかが江戸時代の用例が論拠になると本気でお思いか?
そして彼らはご存じないのです。
遥か過去の中国の古文書が「的を得るがイレギュラーである」と示している事実を……。
次回へ続く
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